昭和47年10月16日 朝の御理解
御理解 第2節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」
教祖金光大神様が、御自身、御神徳を受けられ、しかもその御神徳が、このようにして後の世までも残り、しかもあの世までも持っておいでられる。願えば、天かけり国かけり、御霊様として、氏子の願うところに、たちどころ現れて、その働きを示して下さる程しの御徳を受けられた。それが、あの世までも持ってゆけ、この世までも残るというのは、そういうものです。
ですから御神徳を受けて、あの世までも持ってゆけ、この世までも残るというようなものは、宗教という事を、概念的な事だけは、誰でも知っておりましょうけれども、本当の事は分かりませんけれども、あの世にも持ってゆけ、この世にも残しておけるというような御神徳というのは、教祖金光大神様だけのものではなかろうか。教祖金光大神の信心を頂き、教えを頂いて、そして御神徳を受けていく人だけの上に、これは約束されておるものではないだろうかと思います。
成程、御徳を受けると言いますけれども、それが御神徳でない証拠に、おかげが伴っていなかったり、後の世までも残っていなかったりするんですね。成程、それぞれ人間、徳を持っております。物の徳を持っとる人もあれば、人徳を持っておる人もある。やはりお金なんかを沢山持っておる人は、金の徳を持っておるのです。あの人は九人も子があるというのは、やはり、そういう徳を持ってるんです。本当に信心してですね、徳を受けるという事。これは本当に私共がですね。
御縁を頂いたが最後、本気で、そこのところに取り組まなければいけないなと。昨日ある方から、お届けがありましたけれども。私もよう知っておりますが、それこそ有名な小学校の先生をなさっておられて、それこそもし亡くなられでもしたら、町中から頌徳碑の一つも建てられるのではなかろうかと思われる程しの、みんなにどれだけお世話になったか分からない教えが沢山ありましてね。もう七十幾つになられる女の先生ですけれども、お届けがございましたんですけれども、お子さんがございませんでした。
もう御主人は八十からでしょうか。それで養子を迎えられたけれども。それがあんまり都合よくいかなかったりして。此の頃から養老院においでられるといった様な話を聞いとったんですけれども。それでいても長かったんですが。昨日お届け聞かせて頂いたのが、何か、やはり難儀な病気をなさっておられるという事で、そのお届けを聞かせてもらったら、言うならばです、修身家を地でいくようなお方でしたですね。
いわゆる道徳的な生き方というものを、それは社会の上にも家庭の上にも表されて、本当に素晴らしい生活をなさった方で、素晴らしい人徳を持った方であり、人格者でもある訳なんです。けれども晩年が、その方は、昨日も話した事なんですけれども。本気で信心させてもろうて、信心の徳を受けて、有難い勿体ないというもんでなからなければ、おかげが伴うてこないのですよ。
どんなに、人徳があるとか、財産があるとかと言うても、だんだんだんだん年を取っていってまいりますとですね。金さえあればとか、健康でさえあればよかとかと、若い頃には言いよりますけどね、実際、年を取ってみて、それこそ、人の手を借りなければならないという事になってくるとです、それがもう実に悲しい事になる。昨日、御親戚の方が、お届けをしておられましたが、「先生、大変悲しい事が出来ました」と言うてから、お届けされますもん。
その方と従兄弟にあたられますでしょうか、熱心にここに参って見えますから、その方がお届けをなさいます。聞かせてもろうたら、本当に悲しい事ですねと言うて、言うた事でした。別に金がないとかどうという事じゃないですよ。けれども段々年を取っていくに従って、寂しゅうして寂しゅうしてたまらん生活になっていくなんて、こげな悲しい事はないです。年を取るに従って、信心の徳を頂いた上にも頂いて行ってです。
心の中はいよいよ豊かに、有難くただ有難い事じゃ、勿体ない事じゃという生活に入っていく。その有難い勿体ないに、おかげがあると仰せられるのですから。当てする訳ではないですけれども、もうこれは絶対のものなんです。だからそういう信心というのは、他の宗旨宗派には、ないのではないだろうかと思うのです。生きた宗教という事を申しますけれども、生き生きとした働きを現しておれば生きた宗教ですけれども。
あの世に迄も持って行って、生き生きとした働きが出来、この世にも生き生きとした働きを残しておけるという事。というのはそれを頂く。私で言うならば、私がもし御徳を頂いて、あの世にも持ってゆけ、この世にも残しておけれるというだけではなくて、私自身が助かっておるのです。御徳を受けるという事は、不安がない心配がないという事なんです。只あるものは、有難いだけである、勿体ないだけである。その有難い勿体ないにおかげがあるというのが、教祖金光大神の信心だと思うのです。
ですからここに教祖様がおっしゃる、信心すれば誰でも徳が受けられるというのは、信心というのは金光様の御信心をすれば、誰でも受けられるのである。そんなら金光様の御信心を頂いておってもです。ここに仰る信心すればとおっしゃる信心でなからなければ、御徳は受けられないという事です。ただ合楽に御神縁を頂いて、毎日二十年間もお参りしましたという事じゃないのです。いわゆる誰でも受けられる御神徳。信心とは御神徳を受けるという事なんです。
ですからお参りしよら、おかげは頂きよるというようなのだったら、あの世にも持って行けないし、この世にも残しておけない証拠にです。私共の先輩、又は、私共の、百数十年にわたります、金光教の信心頂いておられた方達の、その後の姿というのを見たら分かるのです。如何に、教祖がおっしゃる信心をしておられなかったか、御徳を受ける為の信心ではなかったかという事が分かるです。
その証拠には、子供さんに信心が続いていなかったり、言うならより悲しい事になっていったりするなら、やはり五十歩百歩だ。何様の信心しても、いや信心はしていなくっても。今、皆さんに聞いて頂きました、中学の先生を永年なさって、そして町中から頌徳碑でも、とてもその教え子だけでも、どの位おるか分からん、その教え子の一人一人が、よか先生じゃった。本当に丁寧な信心した方じゃった、正直なお方じゃった、親切な方じゃったて、誰でも言わん人はないという程しの先生だったんですよ。
けれども、昨日その親戚の方がおっしゃるように、「先生、大変な、こういう悲しい事になりました」と。どういう事ですかと言ったら、話を聞けば聞く程に、それは何と悲しい事でしょうかという事でした。人間が年を拾うていって、どんなに子供がおっても、子供に恵まれていなくっても、信心の徳というものは、そんな事が関係じゃないです。子供がある為に、子供の為に難儀をしておる人がある位ですから。
そげなこっじゃないです。信心の徳を受けるという事は、あの世にも持ってゆけ、この世にも残しておけるだけではなくて、この世に残しておける程しのもの。あの世にも持ってゆける程しのものというのは、私自身が、本当に助かるという事。金に恵まれて、物に恵まれてという事ではなくてです。その有難い勿体ないという、私が助かっておるという、その事にです、一切のおかげがある。人間の幸せの条件の全てが伴うておるというのですから、子供とか財産とかという事じゃないです。
教祖が仰るところの御神徳というのは、そういう御徳なんです。ですから私共は事毎にです。日々の生活の中に、いろいろあります問題、色んな事柄を通してです。いつも信心が焦点でなからなければならない。お徳を受けると言う事が、焦点でなからなければならない。そこからハッキリ答えが出てくるのが金光教の信心だと思うのです。ここはこうあるべきだという答えが出てくるのです。
お互い一つ、悲しい事になってはなりません。どうでもこうして御神縁を頂いて、信心の稽古をさせて頂いておる、その信心の稽古の対象がですこういう生き方。昨日椛目の宮崎さんが、朝の御祈念に参っておられました。それで息子さんがちょっと体が悪いからというお届けがあっておりました。そしたら午後からまた、電話でお届けに来たのですけれども。その息子さんが久留米においでられよってから、事故を起してこちらはどうもしとらんけれども、相手の方が怪我をされたというお届けだった。
昨日の朝お届けがあったばかりでした。だから私が夫婦に申しました。あんたどんが信心が、此の頃緩んどろうがと。だからシャンとせにゃいかんばい、シャンとせにゃいかんばい、あんた達がシャンとせんから、俊郎さんと言いますが長男です。子供の時には熱心に参って来よったけれども。今わざわざこちらへ帰って、椛目の方から福岡へ勤めておるという。私はこちらにおらんのかと思うたんです。あんまり此の頃見ませんから。ところが両親が無信心になると、子供迄がちゃんと無信心になってしまう。
そしてひょっとすると入院でもせにゃんかというごたるお届けがあったのです。ところが、その人が、昨日、車で行きよって事故を起した。シャンとせにゃんばい、シャンせにゃんばい光はついた、先日御本部で頂きましたように、引き上げておかなければ、ずんだれとるところを引き上げておかなければ。だから私がそういう時点でです。信心を頂いておる御徳を受ける行き方というのはです、例えば宮崎さんがどうそれを受けられたか、感じられたか知らん。
直ぐ早速お届けがあったのですから、信心を神様へ神様と言う心が起った事は間違いないです。けれども今朝初めてお参りをして、最近久し振りでお参りをして、そしてその息子の事をお願いさせて頂いたが、親先生が、シャンとせにゃと言われたがです。本当にハイと言うて、直ぐシャンとしようという気になっただろうかという事です。あれがシャンとしておる時には、どういう事かと言うとですね。例えば子供が事故を起したと、電話がかかってきたら。「おかげ頂いた」という事しかないです。
本当に今朝、お届けをしておったから、この位ですんだ、これでおかげを頂いたというものだけしか、答に出てこないです。御徳になるというのはね、そういう場合に、それを信心で受けられた時に御徳になるのです。御徳というのは、力なんですから。どっこいと受ける力ですから。困った事が起ったからお願いするといった様なもんじゃなくて、困った事自体をです、おかげとして受けれる心なんです。これが信心がシャンとしとる時には、教えを頂いて、本気で信心修行が出来ておる時には出来るんです。
出来るから何かがあるたんびに、その問題が大きければ大きいほど力になって行く訳です。叩かれて有難いおかげ頂いたという訳なんです。又はすみませんというのです。例えば鴨居で頭を打った。ああ痛よというのが先に出る様な事では、御徳を受けられんです。すみませんと言う様なね心になる時です。御徳を受けるのはだからそういう心というのは、只一遍知っておるとか、教えられておるだけでは出るもんじゃないです。
叩かれてすみませんと言った様な心が出るという事は、信心がシャンとしておる時でなからなければ出来ん。それが信心すれば誰でも徳が受けられるというのは、そういう信心をしておかなければならんという事。だから叩かれたら有難うございますと言わんならんばいと言よるとじゃないですよ。有難いとか相すみませんとかという心の状態がです、そういうおかげの頂けれる状態をです。そういう信心を頂いておかなければならないという事です。ああ痛よち言うたらそれだけです。後はおかげだけです。
ところが、難しいようでありますけれどもです。信心がシャンとしておる時には、おかげ頂いたと思うんです。例えばそういう叩かれるような場合であっても。又は神様すみませんという事が先に出るんです。そこから信心が引き立ってくる訳です。昨日もああいうお湿りの中に、沢山の方達が、記念祭記念祭という、記念祭の準備の為の御用をなさいました。それぞれの持ち場立場でいろいろと、一生懸命の御用を頂かれた。その御用を頂くという事がです。いわゆる信心で頂かなければと。
昨日皆さんが、御用にかかられる前に申しましたように、心の中に最近御無礼しとる、又は心の中に何とはなしに、お詫びの心が強い人は、今日はお詫びの印と思うて御用頂きなさい。それこそ雨に濡れながら御用頂く事が、いよいよ有難いという事になるでしょう必ず答えが。もう本当に日頃のおかげを頂いておるお礼の印にと思うて、今日は御用させてもらいなさい、必ず喜びが頂けれるです。
本当にこういう御無理な事をお願いしよるから、神様にだけご骨折りを何時もかけておるから、せめてこの位な御用はさせてもらわにゃと思うて、お願いをさせて頂く。所謂願いの信心。だから只願うだけでなくて、せめてという思いで御用頂きなさい、必ずおかげが受けられると、昨日の朝、皆さんに聞いて頂いた訳です。そういう行き方なんです、御徳を受ける信心とは。只一遍くらい御用に行っとかにゃと言うて、お手伝いに来るような事であっては、御徳にならないのです。
教祖様の信心は、そういう信心なんです。婦人部は婦人部の方、婦人部の中でも、勝手の方の御用を専念される方。部屋部屋の御用をなさる方。色々それぞれの御用の分担が違っておりましたが、昨日も東京に行っておられる竹内先生が、昨日帰られた。それでお迎えに奥さん出て見えとる時に、自動車に一杯花の御用を何時も頂かれますから、今度はお花の、各部屋部屋を、竹内先生が中心になって御用を頂かれる事になったんです。それで、いろいろの花器ですね。
お花を入れる盛花をするための器、花を入れる花器を色々持って、どの部屋にどの花器を使わせて頂いたなら良いかと言う、花器調べがあった訳です昨日。私どんじゃお花の事は分からんのじゃから自分が良いと思う、こうこうと言う所をなさっておって下さい。大体部屋に本当にきちっと、まあおかしくない軸がそれぞれに掛かったし調度品も、昨日は、久富さんが一日がかりでして下さった。だからいつお客さんをお迎えしてよいように素晴らしくなった。
これに花が入ったら尚、素晴らしかろうと思う様に部屋部屋が綺麗になった。そこでです。お花をなさるなら、お花をなさる方が、まるきりお花の展覧会でばしあるごと。てんでお花だけ見せようという事になったら、他の調度品が全部崩れるです。他の調度品な押し退けちから私が作った花だけば、飾ろうという事になったら、もう部屋は崩れてしまうです。お花の展覧会じゃないですからね。それは小さいちょっとした花でも、部屋に例えば他の飾ってあるものに争わない。
いわゆる負けない邪魔にならない。こういう事が必要なんです。花を入れた為に、この調度品も生きたというものでなからなければつまらんです。ところがお花だけは賑やかに入ったばってん、他の調度品な隅の方に押しやられちから、死んでしまうというような事であってはいかんのです。お互いが、御用頂いておる時に、ところがそれぞれの受け持ちでやっぱ、自分の受け持っとる場を、いよいよ立派なものにしょうという思いがあるものですか、どうしても、自分の分域というものを広げたがるです。
例えばこれがお花にすると、もうてんで華々しゅうなってから、それこそお華の展覧会のごとなります。これではね私は嫌いです。そこに調度品が置いてあるなら、その調度品が生きるような、お花の入れ方でなからなきゃいかんです。そんなら勝手の方だってそうです。どこの場合だって。所がそこの所にです。色々な摩擦と言う様な事はあるまいけれどもです。例えば昨日秋永先生、高橋さんなんかは、まぁだ未完成になっておる所をそれこそ、昨日三和は来てませんでしたから。
ここがまぁだこげん不備であるのに、ここがまぁだ不完全であるのに、こうもせんならん、ああもせんならん、と言うて、もうイライラする程しだと思うんです。昨日でもジュウタン敷きがあっておりましたけれども、私が一番初めに畳にするか、ジュウタンにするかという時に、私は畳にするち言ったんです。ところが皆さんジュウタンがよいという事になって、その後に永瀬さんの所へやらせて貰った時に、「先生、こげな風にするならいいでしょうが」という訳です。
「これならいいですね」と言うて、そのジュウタンを敷いてある下に、又何かフワーッとするのが敷いてある訳なんです。そして、カーペットが敷いてある訳です。これならいいという事で、お願いしたんです。ところがコンクリートのガチガチするとに、そういうものを敷かずに敷こうとしておる寸前に、高橋さん達気がつかれましてね。ちょいと待ってくれと言うて、私に尋ねにみえましたから。「それは約束が違う。また転びどもするなら頭打ち割るばの」と。
コンクリの上に只それを敷いただけじゃったら、ガチガチ言う。また私共の体にも障る位に、下はコンクリートですからね、板張りでもないのですから。だからこれはどうでも下に敷いて頂いてからせにゃいかんと言ったような、もう本当に油断しとるとどげなこつするじゃら分からんという様な中にですね。そういう場に、御用頂いておられる方達は、気を使っておられる訳です。
ですからイライラモヤモヤしたりです。ただ自分のところの場だけをと言った様な、あちらとこちらの調和のとれない様な御用では、今日の御理解で言うと、そういう信心では、信心にならないという事、いくら御用頂いたっちゃ。私が御用頂いておる事が、この人も生きるという信心でなからなけば。あい待たなければそこに。だからそこんところにです、御祈念がいるんです。又は御神意を伺うという事がいるんです。お取次を頂くという事がいるんです。
お取次を頂いてそこんところに、心が痛ければさすってもらい、痒ければ掻いてもらいという、金光様の御信心は痛ければ痛い、痒ければ痒いで掻いてもらい、さすってもらいながら、そういう行き方でなからなければ、御徳は受けられんです。今日はここのところが、今日の中心ですから、よく頂かにゃいかんですね。普通なら只痛ければさすってもらい、痒ければ掻いてもらい。ただ御利益おかげという事だけに、そういう響きのある表現でしたけれど、今日のはそうじゃないです。
例えば、御用頂きよっても、イライラするような事があるて、モヤモヤするような事が。自分は、こげんしたがよかと思う様な事があるて。だからそのイライラじゃいかんから、イライラする時には、御神前に出て来て自分の心を治めて、又はお取次を頂いて御理解を頂くと、ああほんにそうじゃったと心に気が付く。だから痛いところをさすってもらうのと同じです。歯痒いところは掻いてもらったと同じ事でしょうが。そういう信心に、御徳が受けられると、今日は言っておるのです。
業者なら業者の方達が、もうこちらがあんまり一生懸命なもんだから、ほったらかしてしもうてから、こっちにばかり任せてと言う様なのではなくてです、そういう例えば、どうしたその不行届きな事じゃろうか。どうした不真面目な事であろうかと言う様な心で、御用を頂いとったんじゃ、それが徳になる信心にはならんという事。そういう時には、時間はかまう事はいらん。仕事が少々遅れたっちゃかんまんから、お広前に出て来てから、ここのところは、どう頂くが本当じゃろうかと言う様な。
そういう行き方なんです。そうすると、痛かったところがさすってもらえれるような、痒いかところは掻いてもらえれるような、心の状態が生れる。それでもいけんなら、お取次を頂いて、右左を仰ぐ事なんです。そういう行き方に、金光様の信心とはそういう信心なんです。痛ければ痛い。痒ければ痒い。それを掻いて貰ったり、さすってもらったりして行かなければ、御徳にはならんというのです、今日の御理解は。歯痒い思いだけで、一日御用頂いた。いつもブツブツ心の中に言いながら一日御用頂いた。
これは教会での御用だけの事じゃないよ。自分の手元のところでもそうです。自分の仕事の現場に於ても、同じ事が言えるんです。そしてあぁほんにそうであったと思うたり、本当に有難いと思うてからの、御用でなからなければ、御徳を受けるような信心にはならないという事。神徳は信心すれば誰でも受けられる。今日私が申しましたような信心になれば、誰でも御徳が受けられるという。言うなら成程金光様のご信心は見易うです。自分の心も痛ければさすってもらい、痒ければ掻いてもらいながらです。
いやそうしなければ御徳は受けられんのです。腹の立ったまま歯痒いまま、只ぐうぐう言うて辛抱しとる、そげな信心じゃ御徳は受けられんです。そういう行き詰まりとか、問題がある時に、その事柄を信心で頂こうと精進するその心がね、金光様が仰る信心なんです。それが御徳を受けられると言う。だから火の行水の行をさせてもろうたから、御神徳を受けるという事じゃないのです。成程家業の行とおっしゃる事が分かるでしょう。それを今日は痛ければ痛い痒ければ痒い。
只それを御利益という風にだけにとらずに、おかげはおかげですよ。自分の心に痛い痒いを感ずる時にです。痛いを感じんですむ程しの、痒い思いをせんですむ程しの心の状態を頂きながらです。日々の生活をさせてもらうという事が、金光様の御信心を頂いての信心生活という事になる。そういう信心生活をさせて頂くから、御徳を受けられる。自分自身がその都度助かるでしょうが。イライラするとが、あぁほんにそうでしたと言うて、心の中がスキッとする。
今日私が神様にお願いさせて貰いよりました。そしたらちょうど実際はそうじゃないけれえども、こちらの旧館と新館の方の、相中がこうやって、溝がある様な感じ、コンクリの。そこにこげな大きな鰤は見た事がないという様な大きな鰤と、こんな大きな鯛は見た事がないという様な鯛が、そこに置いてあるとです。いやぁこげんとば大祭にお供えさせて貰うたり、これを使わせて頂いたらそれこそ、ブリブリする様な御大祭が、おかげ頂かれるぞと、私は思うたんですご神願頂いて。
けれどもこれをさばけなければ役には立たんとじゃん。そういう所にある鰤なら鰤をですね、さばかなければいけん。板場さんなら板場さんがおって、お刺身になり、お吸い物になり、それぞれにです、それを見事にさばいて、初めて鰤なら鰤鯛なら鯛の値打ちがある訳です。あんまり大きかもんじゃけんで、手も付けきらん。あんまり大きかけんどげんして良いじゃら分からんと、それを見ておるだけではです、それはそこに鰤があるだけで、腐らかして終わんならん。
また下手な料理じゃったら、折角の鰤や鯛が死んでしまうでしょう。そこでそれ(鰤)をさばいて頂くのはです、誰かと言うと、やはり、神様だと言うことです。だから神様にさばいて頂く元になるところの信心を頂くためにです。今私が申します様に、痒ければ痒い、痛ければ痛いでです。さすって貰うたり、撫でて貰うたり、掻いて貰ったりするような心の状態に、神様が、ほんなら私がさばいてやろうと言うことになる。
私共が一生懸命、心配だけしとると、ほんなら、お前どんがやらよかたいと言うて、神様が外しなさる。そういうことになるでしょうが。こういう今度の記念祭はブリブリとしたおかげが頂けるように、ちゃんと出来ておるけれども、それを神様が、さばいて下さらなかったら、テンヤワンヤだけに終わってしまう。そこで一人一人御用頂く者がです。そういう神様の働きを、十全にするためにそういう神様の働きを十分に、神様にお働きを頂く事の為に、銘々が和賀心でおらなければいけない。
それぞれの持ち場立場でと言うこと。お花ならお花の例をとりましたが、自分のしとる御用だけが立派に出来りゃよかと言うことじゃ出来んです。花を入れたために、この調度品も生きた。この調度品を、ここに置いたために、この花も生きたという様な、双方生かし合うて行けれると言うことは、心の状態が、おかげ頂いておかなければ出来んのです。しかも、そういう生き方が、お互いの生活の中に頂いていけれる
(マスタテープの末尾切れ)